ドヤリング | SHASHAMIN 寝起きのBLOG (via kogumarecord)<横顔力>夢中になってる自分の横顔を誰かが(異性が)暖かく見守っている、、という共学の高校生のような勝手な思い込みによって、意外と活動がはかどること。ワタクシの造語。なんとなく、心当たりありますよね。これは共学に行ってた人なら特にわかると思うのですが、、ま、例えば男子同士ではしゃいでいたとして、かたわらに「男子ってほんとにバカねぇ~~~」という女子がいることによって、さらにハシャギにターボがかかる、、あの行動原理です。この行動原理によって、毎年二子玉川のバーベキュー場で男が川で溺れております。
(via omoro)
これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。人知れず猛特訓して上達してから芸を披露するのが格好いい」などと、よく勘違いしている。こんな事を言う人が芸を身につけた例しは何一つとしてない。第百五十段 - 徒然草校閲日記 (via tatsukii) (via lagash) (via petapeta) (via gkojax)
2009-07-02 (via gkojay) (via f-o-pekoe) (via uessai-text) (via para-fall) (via ssbt) (via kissmyhipbone) (via -barrier-) (via yaruo) (via hustler4life) (via furudanuki) (via crakka) (via okadadada) (via gkojay) (via tokunoriben) (via omoro)
成功は危険だ。自分の成功をコピーしはじめてしまう。パブロ・ピカソ (via darylfranz)
そして自分の成功をコピーするのは、他人の成功のコピーよりもっと危険だ。
それは「創造性の不妊」を招いてしまう。
(via afterschooldrill)
何々になろうとする者がおおいが、何々をしようとする者は少ない。(物理学者: 長岡半太郎)Twitter / 名言bot (via yellowblog) (via fukumatsu) (via ssbt) (via tomine) (via girio) (via fishandmush) (via gkojax-text) (via toufu) (via edieelee) (via sironekotoro) (via afterschooldrill)
そろそろ死にたくなってきた人に捧げる雑文 - やねうらお-よっちゃんイカを食べながら、息子語録を書き綴る (via inujita)私が高校のとき、私は数学だけは成績が良かった。だから数学の授業で教師の話は全く聞かずに「大学への数学」をやったり、「数学セミナー」を読んだり、院試の数学の問題を解いたりして暇を潰していた。定期試験ではいつも授業の範囲を無視して解答していた。それゆえ、正解なのにバツをされて答案が返ってくることが多々あった。採点した教師が私の解答を理解できないからだ。
バツが不当だからと私は数学の教師のもとに抗議に行くわけだが、その教師はたいてい私の話を理解できず(その教師はFラン大学の出身だった)、仕方ないので私は数学の学年主任(その人は京大の数学科出身だった)のところに持って行って、その人に私の答案を採点した数学の教師を説得してもらうのが常だった。
しかし、あるとき、私はいちいち抗議に行くのが面倒くさくなって、抗議に行くのをやめてしまった。どうせテストの点数が95点でも100点でも成績が5段階評価の5であることには違いないし、まして、この数学の担任に採点の間違いを認めされたところでそれは自分にとっては何の益もないことだからだ。
いや、嘘だ。その話は正確ではない。もう少し正確に言うなら、「この担任が理解できようが理解できまいが、数学的に見て正しいものは正しい」と私はある日、気づいたからだ。その担任の鼻を明かし、私自身の矮小なる自尊心を満たしたところで仕方がないのだと気づいたからだ。
そのことに気づけたことは、私にとってまさに僥倖であった。ああ、それこそが数学なのだと思った。数学的な“正しさ”が、個人の感覚や判断などに依拠してはならない。論理的に正しいものは正しいものとして存在しなくてはならない。誰かに理解されようが理解されまいが、正しいものは正しい。そして、自分は正しいものだけをしゃにむに追求していけばいい。それこそが学問なのだ。
何故、私はそのことに気づけたのだろうか?
それはたぶん「ペアノの公理」の定義を私が初めて見たときからだ。その定義を見て、私は何故か涙が止まらなくなった。それは自分でも訳がわからない体験だった。
高校生でも多分名前ぐらいは知っていると思うのだけど、ジュゼッペ・ペアノという人が1891年に「ペアノの公理」を定義して自然数全体を公理化した。数のなかで一番根源的な存在である「自然数」が公理化できるということそれ自体が数学の“健全性”(正統性)を示唆しているとそのとき私は思った。
涙がとまらなくなった理由は、いまにして思えば、きっと「ペアノの公理」が「自分はこの数学の世界に棲んでいていいのだ」という安心と安らぎを与えてくれたのだと思う。「ペアノの公理」こそが自分の存在を肯定してくれ、「自分なんて死ねばいいのに」と思っていた私を「自分なんて死ななくてもいいのに」と思わせてくれた。「ペアノの公理」が「自分がこの世界に生きていていい」ということを担保してくれているように私には思えたのだ。
誰かに理解してもらう必要なんてない。教師や友達に自分のことをわかってもらう必要はない。自分は自分が正しいと思う道を、自分が正しいと思うやりかたで突き進めばいい。数学の教師が一人もおらずいや人類さえもが地球上に誰ひとり存在しなくとも自然数は荘厳とそこに存在しているように、誰ひとりあなたのことを理解していなくとも、あなたはいつも正しく、そして、あなたはこの世に存在していて良いのだから。
(via inujita)

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まとめと作業工程みたいなもの [26]](http://24.media.tumblr.com/tumblr_md5nhscGhK1qk2vgno1_500.png)





